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第三小学校で6年生国語科「やまなし」(宮沢賢治 作)の授業を参観する機会がありました。
校内に入ると、子どもたちのキラリと光るステキな瞬間をスナップにおさめて紹介するコーナー(「三小キラリ」)がお出迎え。
3年生国語科説明文「すがたをかえる大豆」と関連させた取組を紹介するコーナーもありました。
栄養・給食担当の職員が、担任とタイアップして授業を創ったそうです。
実際に大豆をすり鉢で擦って「きなこ」にした様子が紹介されていました。
国語科教材に出てくる「だいずをこなにひく」ことを体験したんですね。
6年生の教室で行われていた国語科「やまなし」の授業。
担任とSE(学力向上)担当とのT・T(チームティーチング)の形で行われていました。
「やまなし」の単元も終盤にさしかかり、本時の目標は『なぜ12月にしか出てこない「やまなし」が題名なのか』について考えること。
「やまなし」は、かわせみが魚を食べる「五月」の出来事とやまなしが落ちてきた「十二月」の出来事が強く印象に残る作品です。
また、効果的な擬音語・擬態語や鉱物による比喩表現により、静かな川底の風景がイメージ豊かに描写されています。
子どもたちは「五月」の情景と「十二月」の情景をきめ細かに心の中に表象させた後、二つの世界を比較する学習を重ねてきました。
その上で『なぜ12月にしか出てこない「やまなし」が題名なのか』について考察。
本時では次のような意見が出ていました。
「十二月はかにたちにとって幸せな月で静かな平和な世界」
「やまなしは死んだけれど、賢治の理想であり希望。自らが死んでも周りに良い匂いを残し、かにたちを幸せにした。賢治もやまなしのような存在になりたかったのではないか」
「人間は時に自分の利のために殺すこともある。戦争におびやかされない十二月のような世界を創りたかったのではないか」
授業の中でも「対話」の大切さがいわれています。
「対話」とは人との対話もありますが、作品と読者との「対話」もあります。
子どもたちは作品と対話しつつ、その中で生まれた問に対して自分なりに精いっぱいの意味(答え)を見出しているようでもありました。
(中村 りか)