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御所池瓦窯跡第1号窯

ページID:022338 更新日:2024年3月28日更新 印刷ページ表示

 土地区画整理事業に先立ち、令和2年6月1日から令和3年4月17日までの期間、JR島本駅前の桜井二・三丁目において、尾山(おやま)遺跡の発掘調査を実施しました。

 この尾山遺跡の発掘調査において、飛鳥時代末から奈良時代前半まで(7世紀末から8世紀前半まで)の間の瓦窯跡(がようせき)と考えられる遺構(いこう)を発見しました。この瓦窯跡の造営及び操業に飛鳥時代の僧・道昭(どうしょう)(629~700年)が関係した可能性があります。

 道昭は、遣唐使として入唐後、玄奘三蔵(602~664年)に師事し、法相教学(ほっそうきょうがく)を学び、帰朝時には多くの経典類を持ち帰りました。その後、飛鳥寺(あすかでら)の隅に禅院を建立し、晩年には各地で土木事業を行った人物であり、行基(ぎょうき)(668~749年)の師とも言われています。

 今回の窯跡の発見は、島本町周辺が道昭や行基、東大寺(とうだいじ)と深い関わりがあることを示す重要な資料となるものです。

御所池瓦窯跡第1号窯 南から

 令和2年6月1日から尾山遺跡の埋蔵文化財の発掘調査を実施しており、この瓦窯跡は、令和3年3月末頃に調査地西端付近で見つかりました。

 約1mの焚口部(たきぐちぶ)及び約1mの燃焼部(ねんしょうぶ)の調査を実施しましたが、その奥に存在する焼成部は調査の範囲外であったため、調査を実施することはできませんでした。しかし、焚口部の前に炭のたまった土坑が存在する点、平瓦を積んで燃焼部の側壁としている点など、珍しい特徴を有した瓦窯跡であることが分かりました。

御所池瓦窯跡第1号窯焚口部・燃焼部 南から

 平瓦を側壁の構築材として用いる瓦窯跡は、特異な瓦窯跡と報道された大津市の真野廃寺(まのはいじ)のものと類似しています。真野廃寺の瓦窯跡は、登り窯(のぼりがま)から平窯(ひらがま)への変遷過程で生まれたものではないかと考えられていますが、尾山遺跡で見つかった瓦窯跡も登り窯から平窯への変遷過程で登場したものである可能性があります。

複弁蓮華文軒丸瓦1

 瓦窯跡の周囲から出土した瓦は、平瓦が大半を占めており、窯の構築材に使われたものと想定できますが、少数ながら軒瓦が含まれており、その文様を施す笵型(はんがた)が明日香村の飛鳥寺東南禅院(あすかでらとうなんぜんいん)や高槻市の梶原寺(かじわらでら)と同じものが使用されていることが明らかとなりました。

複弁蓮華文軒丸瓦2

 飛鳥寺東南禅院と梶原寺では、寺院に使用する瓦を焼いた瓦窯跡(飛鳥池遺跡、梶原瓦窯跡)が発見されており、それぞれ瓦の作り方が異なることから、飛鳥寺東南禅院から瓦工人(かわらこうじん)は連れてこられず、飛鳥寺東南禅院から梶原寺へ笵型のみ搬入され、別の工人によって製作されたと考えられています。尾山遺跡の瓦窯跡は、出土した瓦が梶原寺のものと作り方が類似していることや飛鳥寺東南禅院と同じ瓦以外にも共通する瓦が存在することから、梶原寺の瓦を焼いた窯跡の一つであった可能性が高いものと思われます。

複弁蓮華文軒丸瓦3

 飛鳥寺の東南に位置する禅院である飛鳥寺東南禅院は、道昭によって建立されたものであり、この禅院に葺かれた瓦は、飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)の瓦窯で焼かれたものであることが明らかになっています。古代における瓦は、寺院や官衙(かんが)といった限られた施設に葺かれるものであり、一般に流通するものではないことから、飛鳥寺東南禅院から梶原寺へ笵型が移動し、梶原瓦窯跡や尾山遺跡で使用された背景には、道昭の活動が関係していたものと考えられます。

均整唐草文軒平瓦1

 道昭といえば、各地の土木事業を行ったことでも知られていますが、近くでは山崎(現・大山崎町)から橋本(現・八幡市)までの間の淀川に山崎橋を架けたことが知られており(『行基菩薩伝(ぎょうきぼさつでん)』)、山崎廃寺(大山崎町)からは、別の文様の飛鳥寺東南禅院と同じ笵型の瓦が見つかっています。その後、行基が山崎橋の改修と山崎廃寺(山崎院)の整備を行っていますが、行基は、道昭の弟子であり、道昭の下地を受け継いだ人物とも言われています。

均整唐草文軒平瓦2

 行基は東大寺の大仏建立に携わった人物として知られていますが、『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』には天平勝宝8年(756年)に造東大寺司(ぞうとうだいじし)から四天王寺(大阪市)に14,000枚、梶原寺に6,000枚の瓦を発注したことが記されています。

 また、島本町域に存在した水無瀬荘(みなせのしょう)という荘園(しょうえん)が東大寺造営のために施入されていることから、この周辺が東大寺と関係が深い地であったと考えられます。

重弧文軒平瓦1

 今回の瓦窯跡の発見により、道昭の梶原寺から山崎橋にかけての活動の間を埋めることとなり、道昭がこの地域で濃密に活動を行っていたことが分かりました。また、水無瀬荘の東大寺施入の前史に道昭の活動があったとすれば、道昭が作った下地を行基が受け継いでいるという説を補強するものであり、東大寺造営の際には、それらも最大限利用している可能性があります。

重弧文軒平瓦2

 なお、今回の発掘調査は尾山遺跡内で実施したものですが、瓦窯跡が見つかった場所のすぐ北は、奈良時代の埋蔵文化財包蔵地(まいぞうぶんかざいほうぞうち)「御所池瓦窯跡(ごしょがいけがようせき)」として登録されており、今回見つかった瓦窯跡も御所池瓦窯跡に関連するものであることが推察できますので、大阪府と協議し、御所池瓦窯跡の範囲を広げ、見つかった瓦窯跡は、「御所池瓦窯跡第1号窯(だい1ごうよう)」として登録していただきました。

          
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