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島本町の国・大阪府・町指定文化財を紹介します。
水無瀬神宮所蔵。現在、京都国立博物館に寄託。
後鳥羽上皇の死の直前に、勅命により水無瀬殿を守っていた水無瀬信成・親成父子に申し送った置き文です。
自身の最後が近いことを告げ「日頃の奉公を不便に思うが便宜の所領もないので、力及ばず、水無瀬・井内両荘を相違なく知行して、わが後生をもかえすがえす弔うように」という内容のものです。置き文の一面におされた朱の手印が、上皇の激しい性格と無念さを示しているかにみえます。
水無瀬神宮、所蔵。現在、京都国立博物館に寄託。
承久の乱の直後、生母である七条院に送るために藤原信実に描かせたものといわれています。
後鳥羽上皇死後、水無瀬殿の地に御影堂が建てられ水無瀬信成・親成父子は隠岐から送られた「御手印置文」と修明門院(後鳥羽院後宮)から寄進された上記の直衣姿の肖像画の俗体と、隠岐に在って御自ら鏡をとって写されたと伝えられる法体の御影二幅とを安置しました。
拝殿(はいでん)に向かって左側にあります。時期は不明ですが、豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられています。
桁行(けたゆき)六間、梁間(はりま)五間の入母屋造(いりもやづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)。全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準的で比較的簡素な造りになっています。
一時は社務所、または江戸時代には広間や宸殿(しんでん)と呼ばれていました。
茅葺寄棟造(かやぶきよせむねづくり)。御所から移築したものと言われ、一般に「灯心席(とうしんせき)」または「灯心亭(とうしんてい)」と呼ばれています。これは、茶室の格天井(ごうてんじょう)に山吹(やまぶき)、トクサ、ヨシ、萩など十種余りの灯心の材料とされた草木を用いていることからの名称です。昭和初期以前は「七草の席」とよばれました。
本文41行の古文書です。書き出しは「我ハ法花経ニみちひかれまいらせて」で始まり、末尾は「後鳥羽院御置文之案文嘉禎三年(1237)八月廿五日」で終わります。
後鳥羽上皇によって記されたもので、本文24行の古文書です。書き出しは「番匠男梅元浦入したるあひた」で始まり、末尾は「九月廿三日」で終わります。
後村上天皇によって記されたもので、水無瀬離宮跡に菩提寺として大興禅寺を創建しようとした発願文です。しかし、残念ながら、大興禅寺の建立は果たされることはなかったようです。
「太平記」にみられる桜井の子別れの舞台となった地として知られています。
「建武の新政」に不満を持つ者達が足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとに集まり、挙兵しました。
これに対し、楠木正成(くすのきまさしげ)の策は天皇に受け入れられず、兵庫で迎え撃つことを命じられ、正成は少ない手勢を率いて下向しました。
途中桜井において嫡子正行(まさつら)に「父が討ち死にした後も一族をまとめて戦い続けることが忠孝である」と遺訓して別れ、その後、正成は湊川において壮絶な最期を遂げました。
楠公父子訣別之所碑
大正2年(1913)7月に建立。
題字は陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)の書。
裏面の碑文は寺西易堂(てらにしえきどう)の書です。
楠公子別れの石像
台座は建立当時のもので、題字は公爵近衛文麿(このえふみまろ)の書です。
石像は平成16年に有志により寄贈されました。
楠公父子訣児之處碑
明治9年(1876)12月に建立。史跡公園内では、一番初めに建てられました。
題字は大阪府権知事渡辺昇の書。
裏面にはイギリス公使、ハリー・S・パークスの英文が刻まれています。
明治天皇 御製碑
昭和6年3月に建立。明治31年11月三島地方での陸軍大演習に行幸の際、この地で詠まれたものと言います。
「子わかれの松のしつくに袖ぬれて 昔をしのぶさくらゐの里」
書は海軍元帥であった東郷平八郎(とうごうへいはちろう)です。
裏面の「頼山陽翁過桜井駅詩」は頼山陽(らいさんよう)が文政8年(1825)に尺代、桜井に訪れた際の作で、第4師団長林弥三郎の書です。
忠義貫乾坤碑
明治27年に建立。
JR島本駅の駅前に所在する桁裄(けたゆき)11間、梁間(はりま)7間と大きく、入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんがわらぶき)の建物に裳階(もこし)を廻らせて、正面には入母屋(いりもや)屋根の玄関を構える木造平屋建の建物です。
全体的に簡素ですが、日本の伝統的な社寺建築の要素を用い、規模に相応しい堂々とした意匠にまとめられています。
内部は大空間で折上格天井(おりあげごうてんじょう)を張り、現在展示室として使われている中央のホールには回廊が廻っています。片側に設けられた舞台は、当初演壇として使われていました。
北側にある桜井駅跡が国史跡に指定されて以降、地元の名士からの寄付によって整備・活用され、本建物もその一環として、昭和15年(1940)に建設されました。後に「麗天館」(れいてんかん)と名づけられました。
裳階(もこし)
仏堂や塔、あるいは城の天守などで、軒下に付いた庇状の構造物のことです。通常、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けます。
島本の文化財 No.7-2 島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)(PDF:382.6KB)
入母屋造、銅板葺(元檜皮葺)、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)2間の社殿で、明正天皇(めいしょうてんのう)の内侍所(ないしどころ)を移築したものと伝えられています。
内部は内陣と外陣に区画され、敷地は三方に瓦葺きの築地塀(ついじべい)5条が巡らされ、背面の中央に門、社殿の周囲に雨落溝(あまおちみぞ)が配され、本殿はその中央の亀腹基壇(かめばらきだん)の上に据えられた土台の上に建築されています。簡素ながら風格のある意匠を備える社殿で、江戸前期にさかのぼる宮殿建築に由来する建物です。
島本の文化財 No.9 水無瀬神宮(PDF:423.2KB)
拝殿の屋根は入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺(どうばんぶき)の雄大で落ち着いた雰囲気の入母屋造(いりもやづくり)の拝殿に、独特な意匠の木鼻(きばな)と伸びやかな曲線の蟇股(かえるまた)を飾り、設計者である内務省技師角南隆(すなみたかし)の特徴が表れています。
神門の北寄りに位置し、屋根は入母屋造(いりもやづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)、妻面には木連格子(きつれごうし)、梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)が施されています。
大正期に建てられたもので、石鉢の正面に「奉納盥漱」(ほうのうかんそう)、側面に「構社」(こうしゃ)と刻まれています。
木造2階建土蔵造、屋根は寄棟造(よせむねづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、切石積(きりいしづみ)の基壇上に建てられ、正面に4段の石造階段が設けられ、入口の観音扉(かんのんとびら)上部に桟瓦葺きの下屋(げや)が設けられています。
大正期に建てられたものです。
参道の突き当たりに構えた門で、控え柱を設けた薬医門(やくいもん)形式、屋根は切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺き(ほんかわらぶき)、軒は一軒の疎(まば)ら割りです。
本柱の挿肘木(さしひじき)の方斗(ほうと)で支持された男梁(おばり)が軒桁(のきげた)を支持しています。
小屋組(こやぐみ)は、男梁の上に立てられた撥束(ばちづか)に実肘木(さねひじき)を設けて棟を支え、妻には梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)が施されて、扉は観音開きの板唐戸(いたからと)です。
門の両脇に築地塀を備え、本殿と同様江戸前期にさかのぼる離宮跡地に相応しい格式を示すものです。
社殿の形式は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)ですが、正面の柱の間隔が均等ではなく、中央の間隔が広く、その前面に唐破風(からはふ)が付いているという大きな特徴があります。
特に唐破風は、手前に大きく突き出した「向唐破風(むこうからはふ)」と呼ばれるものです。大阪府内の神社で向唐破風を備える本殿は非常に珍しく、その堂々とした姿は当本殿の大きな見所と言えます。
よって、若山神社本殿は、建築年代が明らかな北摂地域の優れた神社建築の一つであり、向唐破風を備える貴重な神社本殿として、評価されました。
島本の文化財 No.11 若山神社本殿(PDF:751.4KB)
山崎の関所の跡といわれ関守神または辻神を祭ったのが起こりかと考えられています。
平安時代、関が廃止されその跡地に関戸院(公営宿泊施設)が置かれ、貴族や官人達が利用したようです。本殿は、正面の蟇股(かえるまた)の彫刻、頭貫木鼻(かしらぬききばな)の禅宗様系の若葉彫刻などから室町時代中ごろに建てられたと推定されています。
幅約30センチメートルの板を三段につなぎ、黒の額縁をつけた横長の形で、縦90センチメートル、横121センチメートルの絵馬です。
天保2年(1831)6月に東大寺村若連中が中心となり、西八王子社(現若山神社)境内で行われた「おかげ踊」の様子を同地の男8名が世話人となり、西八王子社へ奉納したものです。
樹齢は不詳で、樹高は約20メートル、幹周りは6.7メートル、枝張りは約31メートルです。
地元では、古くから神木としてしめ縄が張られ、天狗の止まる木とされ、触れることも禁じられていました。昭和52年3月に大阪府天然記念物に指定されました。
スギ属の常緑高木です。日本の原生種で長寿の木とされています。
天王山の尾根から派生した標高15メートルの山頂付近にあります。樹齢は600~700年の雌樹で、樹高は15メートル、幹周り約3.5メートル、枝張りは約23メートルです。
樹皮は褐色の染料に、紫紅色の果実は食用になります。やまももの実がたくさん採れた時代には尺代橋詰で売られていました。昭和53年8月に大阪府天然記念物に指定されました。
日本や中国が原産の常緑樹で、温暖な地域に分布します。初夏に赤黒い実をつけます。
若山神社境内の西側に、幹周りが2.5メートルを超える巨樹が42本自生しています。最も大きいもので、樹高は32メートル、幹周りが4.2メートルあります。
自然林で、幹周りが2メートルを超える、非常に珍しいものです。平成14年1月に大阪府天然記念物に指定されました。
ブナ科の常緑高木です。
「水無瀬駒」とは、水無瀬神宮に伝わる将棋駒のことです。
水無瀬神宮の13代目の宮司を務める水無瀬兼成(みなせかねなり)は、安土桃山時代の公家で、能筆家であった彼は駒の銘を書き、89歳で亡くなるまでに700組以上もの将棋駒を制作しています。
将棋駒の先が細く薄く、手前が肉厚幅広な形は兼成が確立させ、以後、高級な駒の形はこれに倣っています。また、江戸時代には、「将棋駒の銘は水無瀬家の筆を以って宝とす。この筆跡の駒、免許なきもの弄すべからず」とまで言われました。
「象戯圖(しょうぎず)」(二巻)は、京都にある天台宗曼殊院宮(まんしゅいんのみや)が所持していた「象戯種々之図(しょうぎしゅしゅのず)」をもとに、兼成が筆写した巻物で、巻の最後に
「天正在壬辰清和下澣 権中納言兼成壽算七十九」
(和訳)天正壬辰(1592年)4月の終わり、権中納言兼成79歳
と署名があり、関白秀次の堅命により、大々象戯(だいだいしょうぎ)・大象戯(だいしょうぎ)の両面を写したこと、これは、希代(きだい)の名誉であると記されています。このように、「象戯圖」も安土桃山時代に高位をもった人物が筆写し、それが現在も伝えられているという点で一級資料といえます。
巻の中には15世紀に6種類の将棋が存在したこと、将棋の初期配置、表と裏の文字、駒の進め方などが図で示されており、将棋の指し方を知る最古の資料です。
「将棊馬日記」には天正18年から慶長7年(1590~1602)まで、各年に水無瀬兼成が依頼主に応じて制作した駒の譲(ゆず)り渡し先が書かれています。
「日記」によると、制作された将棋は現在も一般に指されている「小将棊(棋)」のほか「中将棊」や「大将棊」、「大々将棊」、「摩訶大々将棊(まかだいだいしょうぎ)」だったことが分かります。
依頼主として譲渡先には後陽成天皇(ごようぜいてんのう)や正親町上皇(おおぎまちじょうこう)、関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、室町幕府15代将軍 足利義昭(あしかがよしあき)など、公家、大名、高名な武将が挙げられ、徳川家康(とくがわいえやす)には53組もの駒が納められたことも分かります。
当時の天皇や公家、武将などが次々と登場し、僧侶・神職や商人、大工棟梁たちの名前なども見られます。このようなことから、依頼主が身分的に、また、地域的にも広範囲な層にわたっていた事がうかがわれます。
像高35.6センチメートル、臂張(ひじはり)は24センチメートル、作者は未詳です。
髪と短く両肩から背面に垂らして、衣内で拱手し胸前で組む姿をしています。
ヒノキの縦一材から、頭頂から地付き(じつき)まで丸彫りし、髪、衣などに彩色を施した簡素な造りで、背面の彫りは省略されています。
首をすくめた拱手の姿勢、深い面奥・体奥、大振りの衣文(えもん)は平安時代前期的な特徴を感じられますが、彫りは形式的で、浅めになっており、制作は平安時代後期と思われます。
大きな弧を描く眉、細い眼、細い鼻筋に極端なおちょぼ口は、この時代にはあまり見られないものです。この像は、島本町の鎮守社として住民の厚い信仰を集めてきた若山神社に「聖徳太子像」として祀られてきましたが、聖徳太子像としては例のない姿をしているところから後世に聖徳太子像として信仰されてきたものと思われます。島本町の最古級の神像として非常に貴重な文化財です。
現在、大阪市立美術館に寄託となっています。
島本の文化財 No.2 若山神社・神像(伝 聖徳太子七歳像)(PDF:517.9KB)
宝城庵薬師堂の本尊で、左手に薬壷を持つ一般的な薬師如来像です。像高は96.5センチメートル、薬壷を手と共彫りしていて、平安時代後期の薬壷を表す数少ない例として貴重なものです。作者は不詳。
ヒノキ材、一木造り、彫眼(ちょうがん)、彩色仕上げ。頭頂から足枘まで一材で彫成され、これに両肩に材を寄せています。螺髪切子型(彫出)。肉髻珠・白亳相は表していません。三道を表し、耳朶は貫通しています。左手は、掌を上にして薬壷を載せ、光背を負い、蓮台の上に両足を揃えて立っています。台座、光背は後のものです。鼻・手などに補修の手が加わっており、右手は袖口を入ったところではぎ、薬壷と共木の左手は袖口で矧いでいます。全面黄土彩色を施していますが、彩色はほとんど剥落しています。
平安時代における数少ない優作の一つとして、また保存状態が良好であることも賞されています。
島本の文化財 No.3 宝城庵・薬師如来立像(PDF:534.2KB)
ヒノキ材で、割矧ぎ(わりはぎ)造りと思われ、彫眼、漆箔仕上げです。頭部は、頭頂からノミを入れ両耳後ろを通る線、両肩後ろ、裾張内側を通る線で割り、内刳りの後、矧ぎ合わせていると見られます。左肩先は別材を矧ぎ、右手を矧ぎ、左手を袖口に差し込んでいます。木心を後方に外し、両足半ばより先、および両足先と薬壺は別材。肉髻珠は木製、白亳は水晶です。
螺髪(らほつ)は切子型(彫出)。耳朶(じだ)は環状。肉髻玉・白亳・三道を表します。裙を着けて柄衣を纏い、右肩に覆肩衣を着けています。右手は屈臂して 掌を前にし、五指を伸ばしています。左手は垂下して軽く屈し、掌を上にして薬壷を載せ、光背を負い、両足を揃えて蓮台上に立ちます。後頭部を大きく損傷したため、応急的な修理を施しています。肉髻珠(にっけいしゅ)・白亳(びゃくごう)・両足先・薬壷・台座・光背(こうはい)は後補。両手指に後補部があり、表面は一部の漆箔を除き後補。
丸顔に撫で肩の体躯、浅く繊細な衣文など平安末期の様式を基本としていますが、穏やかな中に厳しさを感じさせる表情や、左袖外側に見られる直線的な衣文表現などから、鎌倉時代に入る頃の作と推定されます。
島本の文化財 No.5 勝幡寺・薬師如来立像(PDF:233.1KB)
元三大師 みくじ関係資料 一式
みくじ版木には魔よけで信仰を集めた角大師の絵や、大吉、小吉などの運勢の吉凶の説明が彫られています。
角大師とは平安時代の天台宗の中興の祖である良源(元三大師)のことで、寺院や神社で行われる「みくじ」の創始者と言われていて、自ら夜叉の姿となり、厄除けの象徴となることを誓ったといわれています。
版木は、全部で9枚(補作1枚を含む)あり、材質は山桜、彫刻は薬研彫り。保存状態は良好です。両端には拍子木のような四角柱(反り止め)が取り付けられており、版木より厚く、重ねた時に傷まないよう工夫されています。両端をレール状に加工し、すべて同方向でスライド式に通していす。
大きさは平均で、縦約21.0センチメートル、横約85.0センチメートル、厚み約1.8センチメートルの長方形です。表・裏に彫られ、一面にはみくじ箋6枚分を刷ることがでします。9枚目の版木は片面で4枚分、全部で1から100番までのみくじ箋が制作できます。
みくじ箋の内訳は、大吉17枚、吉36枚、小吉6枚、末(スヱ)吉6枚、半吉3枚、末小吉3枚、凶29枚です。
版木の彫刻の状態や、反り止めのスライド式構造などから、制作年代は18世紀と考えられます。
全体を通して版木の彫りがしっかりとしていることから、版元である寺が本屋に依頼し、専門の彫師が制作したものと考えられ、みくじ箋の版木の優れた例として貴重です。
みくじ箱は全高 32.3センチメートル、幅 12.0センチメートル、奥行 12.0センチメートルの角柱で、表面は漆塗り。四方角は朱塗り、白色の下地を塗布します。台座の入隅には金箔が施されています。本体に別製の台座が付いており、番号が記された「みくじ竹」が入っています。
天板に、みくじ竹を取り出す孔があり、本体底板にはスライド状の取出口があります。台座裏の書付から、江戸時代の制作と考えられ、この書付から制作に関わった二人の職人(箱職人-善蔵、塗職人-佐兵衛)の名前も判明しています。
みくじ竹の寸法は平均で、全長21.9センチメートル、幅1.2センチメートルで、先端部より約1.0センチメートルのところを削いでいます。
本来は100本あるところですが、現存するのは99本(1本欠損)で、後に補足されたものもあります。
みくじ箪笥は全高 81.4センチメートル、幅 71.1センチメートル、奥行 28.7センチメートルの 長方形。5列・20段の引き出し式になっています。
裏板は3枚、底板は1枚仕立て。左右の側板には取手金具が2個ずつ付いています。引出しの中央には環金具が1個付いています。製作には木釘を使用しています。
島本の文化財 No.6 勝幡寺 元三大師みくじ関係資料 一式(PDF:401.4KB)
口径52.6センチメートル、器高105.0センチメートル、容量522.6リットルで、ほぼ完形です。
出土地は宇治川と桂川が合流する中洲先端部で、平成6年に付近で野外調査をおこなっていた地域住民によって発見されました。
出土地の上流には「山崎津」推定地があり、平安時代には港として栄えていたとされています。生産地は、大阪府南部、播磨から備前にかけての諸窯、尾張、美濃を中心とした東海諸窯のいずれかと考えられ、現段階では特定に至っておりません。また、制作年代については、奈良時代末期から平安時代初頭と考えられています。
容量500リットルを超える大甕は、都での需要が高く、酒造りや藍染めなどの手工業生産に使用されたと考えられます。この甕が淀川河床から出土したことは、大甕のような大型品は陸路で運ばれたのではなく、水路で運ばれたことを示す資料として大変重要で、全国的にみても類例の少ない希少なものです。
古代の都への交通路や運搬経路を知り、都との関連の深い本町の歴史を理解する上では極めて重要な考古資料といえます。
島本の文化財 No.8 須恵器 大甕(PDF:272.7KB)
若山神社は、もと「西八王子社」または「牛頭天王(ごずてんのう)社」といわれ、祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。社伝によると、飛鳥時代の文武天皇の時代、大宝元年(701)に僧行基(ぎょうき)が天皇の勅を受けて勧請したとされ、この地の字名より現在の社名となりました。
神社所蔵の小絵馬は戦時中に焼却され、今は大絵馬五面だけが残ります。いずれも江戸時代のもので、そのうち一面は「東大寺村おかげ踊り図絵馬」です。山城から摂津を経て播磨に伝播した文政のおかげ踊りの伝播経路を裏付けるものとして、平成16年に大阪府の有形民俗文化財に指定されています。
曳馬図(ひきうまず)絵馬1は、四面のうち最大のもので、ひときわ祈願・信仰心の強さが感じられます。伝統的な図柄で、迫力のある仕上がりになっています。
曳馬図絵馬2は、馬を制御し、安堵して馬を曳く馬丁が描かれています。鮮やかな彩色と穏やかな作風です。
猿猴乗馬図絵馬は、猿が神官のいでたちで馬に乗るという奇抜な発想で、細かい描写となっています。
竹虎図絵馬は、他の三面とは絵の内容や表現が異なり、円形画面と共に独自性が見られます。
以上、四面の絵馬は、制作年や制作者が明記されており、江戸時代の人々の当神社への厚い信仰と願いが推量できる民俗資料として町指定文化財にふさわしい作品となっています。
平成30年1月15日に町指定文化財第7号に指定されました。