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島本町の地理的・歴史的環境

ページID:002411 更新日:2021年12月16日更新 印刷ページ表示

地理的環境

 本町は、大阪府の北東端、京都府との境に位置します。北は京都府京都市西京区と京都府長岡京市、北東は京都府乙訓郡大山崎町、東南は京都府八幡市、南は大阪府枚方市、西は大阪府高槻市に隣接しています。

 本町の面積は、約16.78平方キロメートルで、その約7割が北西部に広がる西山山塊の山岳・丘陵地です。そこには、大阪府の天然記念物に指定されている「大沢のすぎ」、「尺代のやまもも」、「若山神社のツブラジイ林」が所在し、豊かな自然が保たれています。

 本町の南東は、京都盆地から流れ込む主要三大河川の桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となって大阪平野に注いでいます。淀川は、古代から重要な交通路として活用され、各所に津が置かれました。

 平野部は、山岳・丘陵地と淀川に挟まれた狭い範囲です。この狭小な平野部には、山陽道(西国街道)が通過し、大阪と京都を結ぶ交通の要衝として栄えました。

 この平野部の北半部には、山地から流れ出る水無瀬川が所在し、平野部をうるおして桂川に流れ込んでいます。

三川合流地点

歴史的環境

 本町には、国史跡桜井駅跡や重要文化財水無瀬神宮客殿、茶室をはじめとして、多くの文化財が存在しています。

 本町における人々の生活の始まりは、旧石器時代にさかのぼります。段丘の立地に位置する山崎西遺跡では、国府型ナイフ形石器や剥片数点が採集されており、後期旧石器時代に、狩猟採集生活の移動拠点がここにあったことを物語っています。

 その後、人々の生活痕跡が長期にわたって途絶えていますが、段丘の立地にある越谷遺跡では、縄文時代後期の土器が多数出土しており、ここに集落が営まれたものと考えられています。広瀬遺跡では、縄文時代晩期の竪穴住居が検出され、生活拠点の沖積低地への進出が確認されています。沖積低地への移行は、水稲農耕文化受容に大きくかかわっているものと思われます。

 その後、少し時期を経た弥生時代では、明確な集落遺構の検出はありませんが、遺物散布状況から、前期に桜井駅跡付近に集落が構えられ、引き続き青葉遺跡や広瀬溝田遺跡に広がりを見せる様子が明らかになってきました。弥生時代後期についても、遺物の散布状況から、越谷遺跡や桜井駅跡付近に集落が存在したと想定されています。

 古墳時代の集落も、明確な遺構は検出されていませんが、広瀬遺跡北西部や越谷遺跡などで、後期の土器散布が確認されています。源吾山古墳群は、この時期の首長墓群と考えられています。

 飛鳥から奈良時代には、鈴谷瓦窯が造営され、この瓦窯に程近い御所ノ平遺跡では、瓦窯とほぼ同時期と考えられる竪穴住居が検出されており、瓦工人の住居の可能性があります。水無瀬川の中流右岸には、奈良・正倉院に伝わる「摂津職水無瀬荘図」から、東大寺領荘園「水無瀬荘」があったことがうかがえます。

 平安時代になると、桓武天皇や嵯峨天皇といった天皇や皇族が頻繁に水無瀬野を訪れ、遊猟をおこなっています。9世紀後半には、惟喬親王の御殿が、水無瀬にあったと言われ、広瀬遺跡で検出された平安時代前期の建物群は、惟喬親王の水無瀬離宮関連施設と考えられています。

 鎌倉時代には、後鳥羽上皇が正治元(1199)年に水無瀬離宮を造営し、頻繁に訪れています。この水無瀬離宮は健保4(1216)年に洪水により倒壊し、翌年、山上に再建されています。広瀬遺跡からは、水無瀬離宮に関わる建物跡や所用瓦、西浦門前遺跡からは、庭園施設などが検出されています。

 室町時代への過渡期、太平記で有名な楠公父子の別れの名場面となった史跡桜井駅跡があります。この史跡は、延元元(1336)年足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都をたった楠木正成が、ここで長子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせた「楠公父子別れの地」として広く世に知られ、現在もこの地を訪れる観光客は後を絶ちません。

          
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