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平成26年6月から同年8月まで発掘調査を実施した西浦門前遺跡では、後鳥羽上皇が造営した水無瀬離宮(みなせりきゅう)の庭園跡と考えられる遺構が見つかりました。
この庭園跡は、水を池に注ぐための施設である遣水跡(やりみずあと)、遣水から注がれる水を溜める小さな上の池、上の池の水があふれ、滝となって下の池へと流れ落ちる滝口である滝組(たきぐみ)の石、滝から流れ落ちる水を受ける大きな下の池、上の池に沿って並べられた景石(庭石)から構成されていました。
水無瀬離宮に幾度となく訪れた藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記である『明月記』(めいげつき)には、水無瀬離宮建替えの記述があり、建て替え後の水無瀬離宮の様子として、池が有り、川を塞ぎ、山を削って、水を引き、滝に大石を立てた、と述べられています(『明月記』建保5年2月24日)。
『明月記』の記述と検出遺構の一致や、鎌倉時代初頭の京都洛北産の瓦、白磁や青磁等の出土遺物の存在から、この庭園遺構が、水無瀬離宮の庭園跡である可能性が高いと考えられました。
水無瀬離宮は正治元年(1199年)頃に造営されますが、「大風洪水」により殿舎が転倒流出し、建保5年(1217年)に山上に建替えられます。(『百錬抄』建保5年1月10日)
調査地は、山の斜面地であることから、建保5年に山上に建替えられた時期のものであると考えられました。
この庭園遺構は、島本町の歴史を考えるうえで、非常に重要なものであるため、歴史文化資料館の敷地内に移築復元することとしました。
写真
左上段:西浦門前遺跡庭園遺構検出状況(南から)
右上段:上の池(西から)
左下段:景石(東から)
右下段:滝組(南から)
景石や滝組の石、小さな上の池に貼りつけられた石、付近の土等を歴史文化資料館に持ち帰り、組みなおして庭園遺構を再構築しました。
景石には、経年により小さなひびが多く入っていたため、ビニールシートで梱包後、コンクリートパネルで囲むように枠を作り、発泡ウレタンを流し込んで、移動する際の緩衝材としました。
庭園移築復元に向けて、歴史文化資料館においてパネル展示「西浦門前遺跡庭園遺構写真パネル展‐水無瀬離宮庭園復元へ‐」を開催するとともに、平成27年5月30日(土曜日)に京都造形芸術大学 芸術学部 歴史遺産学科の仲隆裕(なかたかひろ)教授に、「歴史遺産とまちづくり―住民参加による庭園の発掘・復元・移築・管理―」という題目で講演していただきました。
平成27年8月から、仲教授に指導していただき、住民参加による「西浦門前遺跡庭園移築プロジェクト!」を開始しました。
第1回目は、庭園設計予定地へ設置に向けての測量を行うとともに、復元した小さな上の池の内面に貼りつける石の洗浄と大きさの分類をしました。
第2回目は、西浦門前遺跡から運んだ土を使って、移築復元庭園の形に土を盛っていきました。
また、歴史文化資料館職員と専門業者により、滝組の石の設置を行いました。
第3回目は、土を盛り上げ、庭園や小さな上の池を造成し、造成した小さな上の池に沿って景石を配置しました。
仕上げとして、上の池の内面に石を貼りつけ、周囲には芝生を貼り、池の中には白い砂利を敷き、水が張られている様子を表現しました。
11月3日(火曜日)に、「西浦門前遺跡庭園移築完成披露」を行い、「西浦門前遺跡庭園移築プロジェクト!」を終了しました。
11月28日(土曜日)には、仲教授に「西浦門前遺跡で見つかった水無瀬離宮の庭園移築」という題目で、水無瀬離宮の庭園遺構の移築復元を振り返るとともに、住民参加による移築復元の意義を講演していただきました。
このように、多くの人々の力を借りて、水無瀬離宮移築復元庭園が歴史文化資料館正面広場西端に完成しました。
歴史文化資料館を訪れた際は、是非、水無瀬離宮移築復元庭園にも目を留めてください。
写真
左上段:ビニールシートによる景石梱包状況
右上段:発泡ウレタンによる景石保護状況
左中段:仲教授による講演会(平成27年5月30日)
右中段:「西浦門前遺跡庭園移築プロジェクト!」第1回目
左下段:「西浦門前遺跡庭園移築プロジェクト!」第2回目
右下段:「西浦門前遺跡庭園移築プロジェクト!」第3回目