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島本町の文化財を知っていただくために、連載テーマなども統一せず、不定期で更新しております「島本文化財こぼれ話」ですが、今回は「令和6年度の発掘調査」をとりあげたいと思います。
令和6年度に、百山地区において大規模開発が計画されたことにともない、水無瀬荘跡(みなせのしょうあと)の発掘調査を実施することとなりました。今回の発掘調査の場所は、水無瀬荘跡の南東端に位置しています。
水無瀬荘跡(みなせのしょうあと)は、奈良時代の天平勝宝年間(749年から757年ころ)に聖武天皇によって東大寺に与えられた荘園です。その範囲は「東大寺」の地名が今も残る水無瀬川南側(右岸)一帯と考えられており、奈良・正倉院に現存する日本最古の絵図の一つ「摂津職島上郡水無瀬荘図」(せっつしきしまかみぐんみなせのしょうず)には、当時の荘園の様子が描かれています。荘園は室町末期頃まで続いていたとされ、現在、東大寺三丁目には昭和62年に建てられた「東大寺水無瀬荘跡」の石碑があります。
(写真 調査風景・北から)
発掘調査を実施した結果、江戸時代以降の耕作により古い時代の地層や遺構が削られていることが分かりました。残っていた遺構は、水無瀬荘跡が存在した、奈良時代から室町時代頃のものが中心でしたが、水無瀬荘跡ができる以前の、古い時代の遺構・遺物も見つかりました。
調査範囲の東側では、弥生土器の壺が穴の中に埋められている状態で見つかりました。弥生時代中期頃(今から約2,300~2,200年前)のものです。
(写真 弥生土器が埋められた穴)
調査範囲の北側では、奈良時代前期頃(今から約1,300年~1,200年前)の住居跡(竪穴建物跡)が見つかりました。
(写真 奈良時代前期頃の住居跡)

調査範囲の西側では、大きな溝が見つかりました。長さ90m以上、幅6m以上、深さ1.5m以上もあります。出土遺物が少なく、時代を決めることは難しいですが、南北朝時代以前(今から約700年前)と推測されます。
(写真 南北朝時代以前の溝)
これからは遺構や遺物を整理・検討する作業が残っております。遺構や遺物の時代など、未確定な部分があり、水無瀬荘跡の調査はまだ始まったばかりです。今後、判明した内容を含めて成果を、次回の発掘調査成果展で紹介できればと思います。