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今回は、遺跡から発掘された馬歯についてご紹介したいと思います。
令和6年度に実施した広瀬五丁目地内の発掘調査において溝から馬歯が出土しました。馬歯は保存状態が悪く、土器の間に細かく散乱しており、一部は土ごと持って帰り、分析を行いました。馬歯は一緒に捨てられていた土器の年代から10世紀後半までには遺棄されたのではないかと推察されました。
馬歯出土状況(釘などの先)

クリーニングによって出現した馬歯
もし仮にこの馬が、10世紀後半の時代に生きていたとしたら、どのようなことが考えられるか、日本における馬の歴史について、簡単に解説してみようと思います。
今から遡ること1800年程前、3世紀、中国・魏の国の歴史書、俗に言う「魏志『倭人伝』」(ぎしわじんでん)に、当時の日本には、馬も牛もいないと書かれています。かつて日本には固有種が存在し、縄文時代には広く飼われていたとする説もありましたが、縄文時代のものとされていた馬歯等の理化学的年代測定の成果によって、否定的な意見に変わっており、「魏志『倭人伝』」の記事を裏付けつつあります。日本は海に囲まれており、馬を運ぶのに丸木舟というわけにはいかず、より容量の大きい準構造船の出現する古墳時代まで待たねばならなかったと考えられています。ただし、弥生時代の遺跡から馬歯が出土することもあり、大陸との交流の中で、小型馬が連れて来られた可能性については、特に否定されていません。
いずれにしても、家畜として数を増やし、安定して供給するには、馬を連れてくるだけでなく、高度な馬飼いの技術が必要でした。その画期は、古墳時代中期に訪れます。家畜としての馬の役割でいうと、一般に通信、軍用、運搬、食用、耕作用などですが、食用や耕作に使うために、馬を生産する馬匹(ばひつ)生産に力を入れたとは考えにくく、軍備の増強にあったと考えられます。朝鮮半島から馬飼(うまか)いと馬を呼び寄せ、広大な牧を経営する、国家が主導した馬匹生産は、その後、着々と生産数を伸ばしていったようで、6世紀中頃には、朝鮮半島の国・新羅の援軍要請に対し、馬百頭を送ったという記録さえ登場します。
奈良時代の8世紀に施行された養老令(ようろうれい)の中の厩牧令(くもくりょう)は、二十八か条からなる官の牛馬の取り扱いを定めたものですが、国が目指した良馬とはどのような馬だったのでしょうか。
厩牧令には、馬の等級が上から細馬、中馬、駑馬(どば)とあり、体格が非常に重視されました。細馬には、粟(あわ)や稲、豆、塩などの貴重な食事が与えられ、馬の世話をする馬丁(ばてい)も一匹につき一人と定められていました。対して駑馬は稲の他に青草や干草が与えられ、馬丁も三匹につき一人、と扱いが随分と違っていたのでした。また、馬医の存在や馬薬などもあって、着々と生産数を伸ばしていきました。
平安時代にもなると、ある程度、馬の増産に成功したようで、「馬が多く、百姓の作業を害したため、牧を廃止した」とか、「馬牛が多く繁殖して、島内の水草などを食い荒らすので、納める馬を除いてことごとく処分した」といった地方の牧の記事が見受けられるようになりした。
ちなみに、日本の在来種である北海道和種、木曽馬(きそうま)、御崎馬(みさきうま)などは、頭が大きく短足で、体高142cm以下の中型馬で、古墳時代に朝鮮半島から入ってきた中型馬にルーツを持つ可能性が考えられています。
文化財こぼれ話 古代の遺跡から馬歯が発掘されるということ(2)につづく・・・。