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前回の続きです。今回は、古代に出土する馬の例をいくつかみていきたいと思います。
前回、家畜としての馬の役割は、一般に通信、軍用、運搬、食用、耕作用と書きましたが、他に犠牲の習俗がありました。
古墳時代には、首を切られ、古墳の周濠などに埋納された馬が見つかっています。
他に『日本書紀』皇極元(642)年7月の記事に、旱魃(かんばつ)のために、村々が雨乞いのために牛馬を殺し、神に祈ったことなどが書かれています。その後、生馬を奉納せず、板に馬を描いた絵馬を祭祀に用いるようになるのは、奈良時代からみられます。
しかし、平安時代以降も、牛馬を犠牲にしたとみられる水田祭祀が多く発見されています。
本町においては桜井駅跡で、平安時代末から中世前期頃の層から馬一頭分の馬歯が出土し、整地に際して、地鎮などのための祭祀として置かれた可能性が考えられています。
犠牲は、主要な出土例の一つです。
また、藤原京から出土した馬骨の詳細な分析によって、藤原京造営時の馬の一生が追跡されています。基本的に満3~4歳以上の牡馬が牧から出荷され、木材などの運搬に従事し、資材運搬後、一斉に屠殺されて、肉は食べられ、脳や皮などが回収されました。
養老令(ようろうれい)の厩牧令(くもくりょう)には、勤めの際に乗っている馬牛が訳あって死んだ場合の対処について、馬は資源として解体し、皮や脳を売って、その代金は担当部署に納めるようにと記載されています。藤原京の運搬用の馬と騎乗用の馬とは用途が違いますが、脳が取られ、解体された痕跡が残る馬骨が出土する例が増えるにつれ、これらは厳格に実施されていたと考えられています。
さて、翻って、広瀬遺跡の溝から出土した馬歯ですが、残りが良くないこともあって、資源として利用されたのかなど、詳しいことはわかりません。この馬は、どのように生きて、最後は溝に捨てられたのでしょうか。
広瀬遺跡の馬歯が出土した溝
失われた歴史のパーツを探して、資料の蓄積が待たれます。