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島本町の文化財を知っていただくために、企画展や刊行物に掲載することができなかった話などを連載していくことといたしました。連載テーマなども統一せず、不定期で更新していきます。
令和8年8月1日、これまで禰宜として神明に仕えてこられた水無瀬 努氏が、現宮司である第31代水無瀬家当主、水無瀬忠成氏の後を継ぎ、神社本庁より水無瀬神宮の宮司に任ぜられました。この喜ばしい報せをすでに耳にされている方も多いと思います。
※宮司(ぐうじ、神社の最高責任者)
※禰宜(ねぎ、宮司を補佐し、実務や祭祀を支える幹部職)
今回は、水無瀬家所蔵資料のひとつ、水無瀬忠政(ただまさ、1881-1963)の貴族院(参議院の前身)議員関係史料の中から見つかった、昭和13年(1938)7月1日発行の『近畿新聞』(現在は廃刊)に掲載された忠政(当時58歳)の宮司再就任に関する新聞記事を紹介します。

【写真1】『近畿新聞』第1面(第832号) (昭和13年(1938)7月1日発行)
紙面の二面に掲載された記事【写真2】には、当時、官幣中社であった水無瀬宮(みなせぐう)の宮司は、代々水無瀬家が世襲し、当時は水無瀬忠政が宮司を奉仕していたことが記されています。昭和7年(1932)、子爵でもあった忠政は、貴族院議員当選したために宮司職を辞職しますが、その後任宮司として、5年半の間に合計2名の宮司が任じられていたこともこの記事からわかります。

【写真2】記事「旧の世襲に復した/官幣中社水無瀬宮々司/子爵忠政氏が再就任」
『近畿新聞』第2面(第832号) (昭和13年(1938)7月1日発行)
また、記事は忠政の詳細な経歴にも触れています。
明治42年(1909)に早稲田大学文科を卒業した忠政は、皇典講究所(こうてんこうきゅうしょ)や祭式講習署(さいしきこうしゅうしょ)で学んだと記事にあります。
「皇典講究所」とは、明治15年(1882)に明治政府が設立した日本の古典研究・神職育成機関で、戦後、その機能は「國學院大學」と「神社本庁」に受け継がれ、現在に至ります。「祭式講習署」とは、神職に神社の作法や儀式を教える研修所でした。
その後、忠政は、大正元年(1912)に伊勢神宮のお札(神宮大麻)や暦(神宮暦)の製造・配布などを担当した神宮の役所である「神宮神部署(所)」(じんぐうかんべしょ)の主事補として勤務した後、大正5年(1916)に水無瀬宮の宮司に就任します。
今まであまり知られていなかった忠政の経歴などが記されたこの新聞記事は、「宮司」と「議員」という「二足のわらじ」を履いた水無瀬忠政の足跡をたどるうえで、まさに貴重な資料と言えます。