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島本町の文化財を知っていただくために、企画展や刊行物に掲載することができなかった話などを連載していくことといたしました。連載テーマなども統一せず、不定期で更新していきます。
今回紹介する資料は、水無瀬家所蔵資料のひとつ、水無瀬忠政(ただまさ、1881-1963)の貴族院(参議院の前身)議員関係史料から見つかった、広瀬青年支会が昭和13年(1938)に発行した『広瀬青年支会報』です。

【写真1】『広瀬青年支会報』5月号(昭和13年5月10日発行)
当時、日本の青年たちは、地域ごとに「青年団」を組織していました。それは、大正14年(1925)に政府主導で創立された男子青年団の全国組織である「大日本連合青年団」を頂点に、都道府県、郡、市町村、さらには集落単位の「支部(支会)」へと細分化された巨大なネットワークを構成していました。
その最前線の現場である島本村広瀬の青年たちが自ら編集・発行していたのが、この『広瀬青年支会報』でした。ガリ版刷り(ロウを塗った紙に針で文字を書き、そこからインクを押し出して刷る昭和の簡易手動印刷)の色褪せた古い郷土資料には、集落で生きていた当時の若者たちの、「生々しい息遣い」や「日常の葛藤」が記録されています。
【写真2】は『広瀬青年支会報』5月号(昭和13年5月10日発行)に掲載された、ある青年N君の寄稿です。少し内容を紹介しましょう。
ある日、N君が乗る電車に国鉄吹田駅(現在のJR京都線吹田駅)からみすぼらしい姿の青年労働者が乗車してきました。N君はその薄汚れた身なりに眉をひそめていましたが、その青年労働者が楠公旧跡(史跡桜井駅跡)に差し掛かるや否や、すっと直立して敬礼を捧げました。その気高く荘厳な佇まいに、N君は言葉を超えた深い感動で圧倒されます。そして、「自分たちも彼に見習おうではないか」と強く呼びかけて、この話を結んでいます。



【写真2】「忘レ得ヌ感激」J・N著 『広瀬青年支会報』5月号(昭和13年5月10日発行)
※画像の一部を加工しています
『会報』には、このような感話ばかりが記載されている訳ではありません。【写真3】の『広瀬青年支会報』7月号(昭和13年7月10日発行)には、満州事変で名誉の戦死を遂げた楠公精神の念厚きY君を顕彰する文章が綴られています。


【写真3】「英名燦たりY・Y君名誉の戦死」『広瀬青年支会報』7月号(昭和13年7月10日発行)
※画像の一部を加工しています
昭和6年(1931)に勃発した満州事変から始まる、軍国主義へと傾斜し、戦争の影が色濃くなっていく激動の渦中で、島本の青年たちが何を考え、何を発信していたのか。この残された4冊の『広瀬青年支会報』は、時代の波を自らのものとして生き抜こうとした彼らのリアルな息吹を今に伝える、極めて貴重な資料と言えます。