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島本町の文化財を知っていただくために、企画展や刊行物に掲載することができなかった話などを連載していくことといたしました。連載テーマなども統一せず、不定期で更新していきます。
今回は、桜井にある待宵小侍従墓と顕彰碑について、2回に分けてご紹介します。
待宵小侍従墓(まつよいのこじじゅうのはか)・顕彰碑(けんしょうひ)は、島本町桜井、御所ヶ池の西側、名神高速道路下り線の外側法面にあります。
この場所は町有地であるため、年に2回、町が草刈りを行っています。今年度第1回目の草刈りは、7月の梅雨明けに行いました(写真1~3)。
【写真1】 草刈り前 【写真2】 草刈り(シルバー人材センターの皆さん)

【写真3】草刈り後
草刈りの際に訪れてみると、顕彰碑や墓の前には鮮やかな造花やお水、お線香が供えられています。現在も地域の人々に親しまれ、大切にされていることがうかがえます(写真4~5)。
【写真4】待宵小侍従墓 【写真5】顕彰碑
今も残る、約400年前の顕彰碑
顕彰碑には碑文が刻まれています。最下部はセメントによって補修されているため、一部の文字が失われていますが、その内容からは、高槻城主永井日向守直清(以下、永井直清と表記)が、慶安3年(1650)に、この地域の優れた歌人を朱子学者・林羅山(はやしらざん)に選定させ、俗に伝わる「待宵小侍従の古跡」のそばに碑を建てたことが読み取れます。
この顕彰碑が建てられたのは、今から約400年前のことです。長い年月を経た石碑には、年月を感じさせる古色がついています。
一方、待宵小侍従の「墓」とされている場所には、新しく付け足された部分もあって、外見だけでは古さが判断しにくい五輪塔が一基置かれているだけです。
「果たして、これが800年以上前に亡くなった人物の墓なのだろうか?」
そう疑問に思うのも、無理はないかもしれません。
それでは、待宵小侍従墓は、いったいいつからこの場所にあるのでしょうか。
かつては、現在とは違う場所にあった
待宵小侍従墓がかつてあった場所は、かつての名神高速道路桜井サービスエリアのすぐ西側、名神高速道路の上下線に挟まれた中央分離帯でした。
その後、名神高速道路の拡幅工事に伴い、現在の場所へ移築されることとなり、平成5年(1993)に発掘調査が行われました。
当時の発掘調査報告書には、中央分離帯にあった頃の待宵小侍従墓の写真が掲載されています。

【写真6】伝待宵小侍従墓顕彰碑(東から・昭和40年頃撮影)出典:名神高速道路内遺跡調査会「名神高速道路内遺跡調査会調査報告書第2輯 中央自動車道西宮線拡幅工事に伴う越谷遺跡他発掘調査報告書 伝待宵小侍従墓・源吾山古墳群」1997

【写真7】【写真6】を見やすくするためAIで着色 【図1】現在の待宵小侍従墓模式図(水輪は、丸い部分)
写真を見ると、2本の老松の間に顕彰碑が立ち、その後ろには五輪塔の水輪(すいりん)だけが置かれています。

【写真8】【写真6】の右下写真を見やすくするためAIで着色
同じ【写真6】の右下には、名神高速道路が開通する前の待宵小侍従墓の写真も掲載されています。そこには3本の老松と、そのシルエットから顕彰碑と思われるものが確認できます。
この3本の松については、昭和9年(1934)の室戸台風によって1本が倒れ、2本になったと伝えられています。
もしその話が正しければ、3本の松が写っている写真は、昭和9年以前に撮影されたものということになります。
つまり、待宵小侍従墓と呼ばれてきた場所には、名神高速道路が建設される以前から、長い間、顕彰碑と五輪塔、そして松が存在していたことがわかります。
「墓」だったのか、それとも「古跡」だったのか
ところが、発掘調査報告書では、この場所が実際の墓であったという確証は得られていません。
また、永井直清が顕彰碑を建てた元の場所にずっと立っていたという確証も得られなかった、としています。
ここで興味深い資料が登場します。
それが、江戸時代に刊行された『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』です。
『摂津名所図会』に描かれた待宵小侍従墳
『摂津名所図会』は、摂津国の名所や旧跡を紹介した地誌で、いわば江戸時代の「観光ガイドブック」のようなものです。
寛政10年(1798)に刊行された『摂津名所図会』巻五の島上郡の項には、「待宵小侍従墳 碑銘」という項目があります。

【写真9】待宵小侍従墳 出典:https://www.digital.archives.go.jp/img/4241104
[件名・細目]「摂津名所図会6」(172-0249-0006)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4241104<外部リンク>
【写真10】写真9を見やすくするためAIで着色

【写真11】待宵小侍従塚部分拡大
実際に絵を見てみると、手前には西国街道を歩く人々が描かれ、その奥には、松が茂った小高い場所が描かれています。
そこには「待宵小侍従塚」と文字が記され、四角い線で囲まれています。その下には顕彰碑と思われるものと、もう一つ、石のようなものが描かれています。
絵の左手に見える池は、現在の御所ヶ池と考えられます。(着色によって、水色の川のように見える部分は田んぼです。)
さらに、西国街道の右端に描かれた松を、現在の桜井の駅跡に残る「子別れの松(旗立松)」、つまり楠木正成が旗を立てかけたと伝えられる松と考えると、描かれた「待宵小侍従墳」の位置は、おおむね名神高速道路の拡幅工事以前にあった場所と重なるように見えます。
『摂津名所図会』が刊行されたのは、顕彰碑が建てられてから約150年後のことです。
もちろん、絵図だけから、顕彰碑や五輪塔が当時のまま残っていたと断定することはできません。
しかし、絵図を見る限り、この周辺では大規模な開発が行われることなく、顕彰碑が建てられた場所が長く「待宵小侍従の古跡」として認識され続けていた可能性は十分に考えられます。
「古跡」とは、何だったのか
ここで、もう一つ気になることがあります。
永井直清が顕彰碑を建てた当時、そこには本当に待宵小侍従の墓があったのでしょうか。
待宵小侍従が亡くなったのは、顕彰碑が建てられた慶安3年(1650)より、すでに400年以上も前のことです。
そのため、当時まで本人の墓が残っていたと考えるのは、必ずしも容易ではありません。
しかも、顕彰碑の碑文には、そこが「俗に伝わる古跡」であることが記されています。
こうしたことから考えると、永井直清が顕彰碑を建てたのは、待宵小侍従本人の墓が確実に残っていたからというよりも、地域に「待宵小侍従ゆかりの地」として伝えられてきた場所に、その顕彰のための碑を建てた、と考える方が自然なのかもしれません。
では、その「古跡」とはいったい何だったのでしょうか。
五輪塔は、いつからここにあったのか
『摂津名所図会』では、待宵小侍従の「古跡」が具体的に何を指すのかは、はっきりとはわかりません。
しかし、大正6年(1917)の記録には、東西約4.5m、南北約3.6m、周囲約16.2mの墓域があり、その中に高さ約0.9mの五輪塔があったことが記されています。
また、先ほど紹介した名神高速道路の上下線の中央分離帯で確認された際には、五輪塔の他の部分は失われ、水輪だけが残されていました。
この五輪塔が、いったいいつから存在していたのか。
そして、永井直清が顕彰碑を建てた際に、そこに存在していた「古跡」が、この五輪塔だったのか。
残念ながら、現在のところ確かなことはわかりません。
ただし、その可能性は十分に考えられます。
待宵小侍従の「墓」は、なぜ残ったのか
ここまで見てくると、現在「待宵小侍従墓」と呼ばれている場所が、いつから、どのような形で存在していたのかについて、すべてが明らかになっているわけではないことがわかります。
しかし、一つ確かなことがあります。
慶安3年(1650)、永井直清によって顕彰碑が建てられたことで、この場所は改めて「待宵小侍従ゆかりの地」として人々に認識されるようになったと考えられることです。
その後、江戸時代の『摂津名所図会』にも取り上げられ、近代になってからも五輪塔や顕彰碑、松が残され、現在へと受け継がれてきました。
名神高速道路の建設や拡幅工事によって場所を移しながらも、「待宵小侍従の古跡」としての記憶は途切れることなく、現在まで残っています。
そして今も、墓前には花やお水、お線香が供えられています。
それは、古い資料だけではわからない、地域の人々がこの場所を大切にしてきた証なのかもしれません。
では、そもそも、なぜ島本町の桜井に「待宵小侍従墓」と呼ばれるものが存在するのでしょうか。
そして、「待宵小侍従」とはいったい、どのような人物だったのでしょうか。
次回は、待宵小侍従その人について、探ってみたいと思います。
つづく。