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前回は、島本町桜井に残る「待宵小侍従墓」について、現在まで残されている顕彰碑や五輪塔、江戸時代の『摂津名所図会』などを手がかりに、その由来を探りました。今回は、そもそも「待宵小侍従」とはどのような人物だったのか、そして、なぜ彼女の伝承が桜井の地に残されているのかをたどってみたいと思います。
歌人・待宵小侍従
待宵小侍従は、平安時代末期の12世紀初め頃、石清水八幡宮別当大僧都 紀光清を父とし、花園左大臣家女房 小大進(はなぞのさだいじんけのにょうぼうこだいしん)を母として生まれました。
京都府八幡市にある石清水八幡宮は、平安時代に創建され、当時は伊勢神宮に次ぐ高い地位を占め、天皇や貴族から厚い信仰を受けていました。「別 当」とは、石清水八幡宮の最高責任者にあたる役職です。父 紀光清、母 小大進のいずれにも和歌が残されていますが、とりわけ母の小大進と、その妹である殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)は、当時、名の知られた歌人でした。そう考えると、小侍従は、いわば歌の才能に恵まれた家に生まれ育った女性だったと言えるでしょう。
二条天皇のもとへ ―― 第二の人生
成長した小侍従は、太政大臣 藤原伊通(ふじわらのこれみち)の子、藤原伊実(これざね)と結婚し、一男一女をもうけたようです。ところが、平治2年(1160)、39歳の頃に夫と死別します。当時としては、すでに子どもが成人し、孫がいても不思議ではない年齢です。しかし、小侍従はその後、二条天皇に出仕することを決意します。ここから、小侍従の第二の人生が始まりました。
二条天皇の崩御後は、その皇后であった藤原多子(ふじわらのたし、まさるこ)に仕えました。藤原多子は、近衛天皇と二条天皇の二代にわたって皇后となったため、「二代后(にだいのきさき)」と呼ばれた、史上唯一の女性です。そして、この藤原多子に仕えていた時代に、小侍従を後世まで有名にする一首が生まれました。
「待つ宵」と「帰る朝」
平家の栄枯盛衰を描いた『平家物語』にも登場する、よく知られた逸話です。ある時、藤原多子が小侍従に、「想い人を待っている宵と、帰っていく朝とでは、どちらがつらいでしょう」と尋ねたといいます。これに対して、小侍従は
待つ宵にふけゆく鐘の声聞けば飽かぬ別れの鳥はものかは
と詠みました。夜が更けるのを告げる鐘の音を聞いて、まだ来ぬ人を待つ宵のつらさに比べれば、別れを告げる朝の鳥の声など、どうということはない ―― 。 「待つ夜」の切なさを詠んだこの歌によって、藤原多子の侍従は、「待宵小侍従」という二つ名で呼ばれるようになりました。「小侍従」の「小」については諸説あります。「小」には、妹や美しい人を意味する用法があるともされ、小侍従には、鳥羽天皇に嫁いだ姉妹の美濃局(みののつぼね)や兄がいたことなども知られています。
宮廷歌人として
宮仕えをしていた小侍従は、歌壇や歌合(うたあわせ)にも参加し、多くの和歌を残しました。特に、情熱的な恋の歌を多く詠んだ歌人として知られています。その恋の相手の一人として知られるのが、源三位頼政(みなもとのさんみよりまさ)です。源頼政は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じ源氏でも、系統を異にする摂津源氏の出身です。また、内裏を守護する大内守護を務める家柄であり、鵼(ぬえ)を退治した伝承も知られますが、歌人としても優れた才能を持っていました。歌を通じて、小侍従と互いに影響を与え合ったのかもしれません。
小侍従はその後、高倉天皇にも仕え、60歳頃に出家して尼となったと伝えられています。時はまさに武士の世へと向かう源平の争乱の時代でした。出家後については、石清水八幡宮が鎮座する男山に庵を結んだとも、兄の清水日向守光重が仕えた桜井御所の近くに真如院を開いたとも伝えられています。ここから、小侍従と島本町桜井とのつながりが見えてきます。
石清水八幡宮に伝わる「椿坊」
明治時代に神仏分離令が行われるまで、石清水八幡宮が鎮座する男山丘陵には、数多くの坊が存在していたことが知られています。当時の様子を描いた絵図も残されています。その中に、小侍従が出家した際に住んだと伝えられる「椿坊」があります。現在は石垣などが残るのみですが、かつてここに建物があったことをうかがわせる威容を誇っています。
石清水八幡宮表参道から見える坊の石垣

表参道の途中にある中坊と椿坊の説明版と今も残る石垣(かつて待宵小侍従が居住していたことも明記)
一方、もう一つの伝承として登場するのが、島本町桜井の「真如院」です。
桜井にあったと伝えられる真如院
真如院は天台宗の寺院で、代々尼僧によって受け継がれていたとされますが、応仁の乱の兵火によって 廃絶したと伝えられています。江戸時代後半、19世紀に書かれた『男山考古録』には、興味深い記録があります。それによると、寛文年間(1661 ~1673)に、摂津桜井の里にあった真如院の本尊・観音像と待宵小侍従の像を、石清水八幡宮の頓宮の西掖門のほとりへ還したことが記されています。つまり、江戸時代の記録の中に、桜井と真如院、そして待宵小侍従を結びつける伝承が残されているのです。
御所ヶ池周辺に残る地名
さらに興味深いのが、御所ヶ池周辺に現在も残る地名です。この地域には、「真如院」「六条殿」「御所ノ前」「薬師堂ノ庭」などの字名が残っています。これらの地名は、かつてこの地域に寺院や建物などが存在したことを思わせるものです。

桜井周辺の小字図(現在の御所ヶ池の北東部分が真如院)
また、この地域では、名神高速道路の建設に先立って、昭和34年(1959)に国立奈良文化財研究所の森 蘊(もり おさむ)氏(当時)による測量調査が行われています。その調査では、「傾斜地を開いて建物の配置に適するような平坦地」としているなどの様々な土木工事の様子がうかがわれ、桜井御所にまつわる伝承についても、「明徴を欠くきらい」があるとしながらも、疑いの余地はないとの見方が示されています。ここで言及する桜井御所は、平安初頭に建立したとされ、応仁の乱の兵火で焼失したと言われています。その間に周辺には寺院などが形成されていった可能性も考えられます。もちろん、これらの調査や地名だけから、待宵小侍従が実際にこの地に住んでいたと断定することはできません。しかし、桜井の地に残された伝承と、地名、地形、そして古い記録を重ね合わせてみると、そこには長い歴史の積み重なりが見えてきます。
伝説の地に眠る待宵小侍従
晩年の小侍従は、後鳥羽上皇の歌壇でも活躍し、80歳の心境を詠んだ歌も残されています。ただ、彼女がどこで最期を迎え、どこに葬られたのかについては、詳しいことはわかっていません。現在、桜井に残る「待宵小侍従墓」が、実際に小侍従本人の墓であることを証明する確かな史料は、今のところ見つかっていません。けれども、そこには「待宵小侍従の古跡」として、400年近く前に建てられた顕彰碑があり、江戸時代の『摂津名所図会』にもその名が記され、さらに桜井の地には、真如院や桜井御所にまつわる伝承や地名が残されています。一つひとつの史料だけでは見えてこないものも、こうして重ね合わせてみると、長い年月を超えて受け継がれてきた一つの物語が浮かび上がってきます。
待宵小侍従が本当にこの地で晩年を過ごしたのか。そして、ここに残る五輪塔は、果たして彼女の墓なのか。その答えは、今も歴史の中に眠っています。