本文
所在地
島本町山崎一丁目
所在地
島本町桜井一丁目
JR島本駅前にある史跡で、馬など旅に必要なものを備えた宿駅の跡といわれます。
『太平記』によると、延元元年(1336年)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を出発して兵庫に向かった楠木正成(くすのきまさしげ)が、桜井の宿(駅)で嫡子の正行(まさつら)に遺訓を残して河内に帰らせたとあります。この伝承は「桜井の別れ」として後世の人々に広く知られ、絵や詩、歌の題材として多く取り上げられました。
桜井駅跡は、明治期から昭和10年代にかけて整備され、石碑の建立や敷地拡張などがおこなわれ、大正10年(1921年)には国史跡に指定されています。
所在地
島本町東大寺三丁目
町内に残る「東大寺」の地名は、むかし、奈良・東大寺の荘園「水無瀬荘」(みなせのしょう)がこの辺りにあったためです。水無瀬荘は、東大寺造営中の天平勝宝年間(749年から756年)に聖武天皇の勅によって東大寺領とされ、荘園は室町末期ごろまで続きました。奈良・正倉院に残る日本最古の絵図の一つ「摂津国水無瀬絵図」(せっつのくにみなせえず)には、当時の荘園の様子が描かれています。現在は東大寺三丁目に石碑が建っています。
所在地
島本町桜井三丁目
桜井三丁目の御所池(ごしょがいけ)西側、名神高速道路沿いにあります。平安末期から鎌倉初期の女流歌人・待宵小侍従(まつよいこじじゅう)は、晩年出家し、桜井に住んだといわれ、墓がこの付近にあったと伝わります。慶安3年(1650年)、高槻城主・永井直清(ながいなおきよ)によって林羅山(はやしらざん)の撰文を刻む顕彰碑が建てられました。以前は北側にありましたが、平成7年(1995年)、名神高速道路拡幅工事に伴い、現在地に移転しました。
待つ宵の 更けゆく鐘の 声きけば あかぬ別れの 鳥はものかは (待宵小侍従)
所在地
島本町大字高浜
高浜薬師堂横に石碑があります。
慶応2年(1866年)、幕府は淀川の抑えとして楠葉と梶原に砲台(台場)を築き、慶応三年に、高浜に川番所、楠葉に船番所を設置しました。明治元年(1868年)、鳥羽伏見の戦のとき、幕軍の津藩(藤堂家)は梶原砲台(台場)と山崎の関と高浜川番所を守備していましたが、途中で官軍に帰順し、対岸の幕軍に向かって砲撃を開始、橋本陣屋との間に激しい砲撃戦を展開し、最後には船を漕ぎ出して、小銃で銃撃したそうです。砲台は、石碑から北東650メートルの位置にありました。
「西国街道」は江戸時代の山陽道の呼び方で、京都と西国(中国・九州)を結ぶ重要な幹線として発展し、参勤交代の大名も往来しました。島本町内にも、山崎から桜井にかけて、旧西国街道(現:府道67号線)が通っており、山崎付近には、街道沿いの古い家並みが一部残っています。