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尾山遺跡の鎌倉時代の泉跡

ページID:022327 更新日:2024年3月28日更新 印刷ページ表示

調査地 尾山遺跡発掘調査2区 南西からの画像
調査地 尾山遺跡発掘調査2区 南西から

 令和2~3年に実施した尾山(おやま)遺跡の発掘調査において泉跡(167泉)が見つかりました。この泉跡は、2回改築が行われていますが、当初、素掘りのもの(第1期)でした。

泉跡 第1期 南東からの画像
泉跡 第1期 南東から

 その素掘りのものが、ある程度埋没した段階で、1回目の改築が行われ、底は礫敷き、北西の壁は石垣状のもの(第2期)となりました。

泉跡 第2期 南東からの画像
泉跡 第2期 南東から

 改築した底の礫敷きも埋没した後に、2回目の改築が行われます。この改築により、新たに底に礫が敷かれ、北西の石垣の上に更に石が組まれ、景石(けいせき)が配置されます(第3期)。

泉跡 第3期 南からの画像
泉跡 第3期 南から

 この3期の泉から出土した遺物の年代に、明確な時期差はなく、鎌倉時代後半頃に造営され、短期間に幾度も改築されたものと考えられます。

 特に、最終段階の第3期目のものは、景石が配置され、庭園造営の手法に基づいており、庶民が造営したものとは考え難いものです。本町域では、鎌倉時代前半に後鳥羽(ごとば)上皇が水無瀬離宮(みなせりきゅう)を造営したことが知られていますが、この泉が造営された鎌倉時代後半頃には、承久(じょうきゅう)の乱により後鳥羽上皇が隠岐にうつっています。当時の本町周辺の支配体制については明らかではありませんが、今後の発掘調査成果によっては、承久の乱後の本町周辺を治めた有力者の解明の手掛かりとなる可能性がある遺構(いこう)であるため、発見されたこの公園内に第3期目の状態を再現することといたしました。

 

 泉跡の北側と南側には溝(221溝・162溝)が接続し、2つの溝は北東に延びることを確認しました。これらの溝は、泉の水が溢れた際、外部に排水する機能を有していたものと考えられます。

泉跡周辺平面図の画像
泉跡周辺平面図

 泉跡の礫は、青色系の石が使用されていますが、北側の溝との接続部には緑色系の景石(景石4・5)が配置されており、人々の目を惹く工夫がされています。

景石4・5 北西からの画像
景石4・5 北西から

 また、北側の溝の先には、曲げ物(まげもの)の底に青色の石が敷かれた土坑(190土坑)がありますが、これは北東に存在したと考えられる池に水を送る前に、濁った水の砂を落とすための施設と考えられます。

190土坑 北東からの画像
190土坑 北東から

 湧き水は、泉跡の西壁側から湧き出ており、泉の改築に伴い、湧水(ゆうすい)地点の溝跡の整備もされています。地下水が西壁の砂の土層から浸透し、湧水地点の溝を通じて、泉に水を満たしたものと考えられます。

湧水地点 南東からの画像
湧水地点 南東から

 泉跡の北側には、582溝と118溝に囲まれる211平坦面が存在します。211平坦面は硬く締められており、この周囲から大量の土器(どき)類が出土しています。この211平坦面も、泉跡に関係する施設であった可能性が高いものと考えられます。

211平坦面 南西からの画像
211平坦面 南西から

211平坦面遺物出土状況 南西からの画像
211平坦面遺物出土状況 南西から

(ご注意)

 泉が存在した当時の遺構を再現しておりますので、見えない部分の湧水地点は再現していません。

 また、泉内でケヤキが見つかっていますが、発掘調査で見つかったケヤキを複製品として再現するのではなく、当時の状況を再現するため、遺構の西側に本物の植物のケヤキを植えています。

 

 泉跡が見つかった令和2~3年の尾山遺跡の発掘調査では、縄文時代から中世までの遺構・遺物(いぶつ)が見つかっていますが、泉跡と同時期の遺構・遺物も多く見つかっています。この発掘調査により、それ以前は農地として利用されていた調査地周辺が、鎌倉時代後半頃に大きく開発されていることが明らかとなりました。

鎌倉時代後半の井戸跡1 南西からの画像
鎌倉時代後半の井戸跡1 南西から

鎌倉時代後半の井戸跡2 西からの画像
鎌倉時代後半の井戸跡2 西から

 

 また、約100m西の調査地点では、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけて操業し、瓦を焼いた御所池瓦窯跡(ごしょがいけがようせき)第1号窯(だい1ごうよう)が見つかっています。

御所池瓦窯跡第1号窯 南からの画像
御所池瓦窯跡第1号窯 南から

 この瓦窯跡で焼かれた瓦が、どこの建物に使用されたかは不明ですが、この瓦窯跡付近から飛鳥寺東南禅院(あすかでらとうなんぜんいん)(奈良県明日香村)や梶原寺(かじわらでら)(大阪府高槻市)で使用された瓦と同じ文様の瓦が見つかっており、両寺院との関係性が注目されました。

御所池瓦窯跡第1号窯付近出土瓦の画像
御所池瓦窯跡第1号窯付近出土瓦

 飛鳥寺東南禅院は、行基(ぎょうき)の師と言われる道昭(どうしょう)によって建立された寺院ですが、道昭は山崎廃寺(やまざきはいじ)(京都府乙訓郡大山崎町)の造営にも関与しており、大山崎町周辺で活動していたことが明らかとなっています。山崎廃寺と距離的に近い御所池瓦窯跡においても、道昭が関与していた可能性があります。

 

(語句説明)

景石:視点集めるために配置された自然石。

後鳥羽上皇:平安時代末~鎌倉時代初頭の天皇及び上皇。文武両道であり、新古今和歌集の編纂や承久の乱などで知られる。

水無瀬離宮:鎌倉時代初頭に、後鳥羽上皇が水無瀬(現在の島本町、大山崎町周辺)に造営した宮殿。

承久の乱:承久3(1221)年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時を討伐するために兵を挙げた戦い。

遺構:建物、古墳、溝などの地面に造られた構造物が使用されなくなり、地中に埋まったもの。また、その配置や様式を知ることができる痕跡。

遺物:土器、石器などの動かすことが可能な道具などが、地中に埋まったもの。

曲げ物:薄い木の板を曲げて円筒形にして、容器としたもの。

湧水地点:水が湧いてくる場所。

土器:土で作られた器。

飛鳥寺:蘇我馬子(そがのうまこ)により建てられた日本最初の本格的な寺院。

飛鳥寺東南禅院:道昭により飛鳥寺の東南隅に建てられた禅院。

梶原寺:創建は飛鳥時代までさかのぼると考えられる高槻市梶原に存在した寺院。東大寺大仏殿造営中に、四天王寺と梶原寺に大仏殿回廊の瓦2万枚を発注された文献により知られている。

行基:飛鳥時代から奈良時代の仏教僧。聖武天皇に大僧正に任命され、大仏造営を行ったことで知られる。

道昭:飛鳥時代の仏教僧。遣唐使として入唐後、玄奘三蔵に師事し、多くの経典を日本に持ち帰った人物。多くの土木事業や日本で初めて火葬された人物としても知られる。

山崎廃寺:行基建立49院の1つである山崎院の跡。道昭が創建し、行基が改修したと考えられている。

 

御所池瓦窯跡第1号窯

          
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