ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 歴史・文化財 > 島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)の概要

本文

島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)の概要

ページID:002413 更新日:2021年12月16日更新 印刷ページ表示

麗天館の扁額

 昭和16年(1941年)、桜井駅跡の記念館として建てられました。当時、大阪財界の重鎮であった一瀬粂吉(いちのせくめきち)氏が当地を訪れた際に、楠公父子の忠孝に感激し、有志と共同で、史跡桜井駅跡の拡張整備事業に尽力し記念館を建設、島本町がその管理にあたりました。正面玄関には近衛文麿(このえふみまろ)の書で「麗天館」と書かれた扁額が掲げられました。

 戦後は大阪府立青年の家の講堂として開放されていましたが、青年の家閉所後の平成16年、島本町が大阪府から無償譲渡を受け、「島本町立歴史文化資料館」として同16年4月1日に条例制定により設置しました。

 その後、施設・設備などの改修を経て、広く住民の皆様をはじめ、島本町を訪れるかたがたに島本町の歴史と文化を知っていただけるよう、平成20年4月12日に資料館として正式開館をしました。

 建物は、平成27年8月4日に国登録有形文化財となりました。

建物について(登録有形文化財の登録理由)

 島本町立歴史文化資料館はJR島本駅の駅前に所在する木造平屋建の建物です。

 資料館の北東には国史跡「桜井駅跡」が史跡公園として整備されています。
 この地は建武3(1336)年に楠木正成が足利尊氏を迎撃するため湊川に出陣する際、息子の正行に河内への帰国を告げ、「いつの日か必ず朝敵を滅ぼせ」と諭して別れた場所と伝えられています。
 「桜井駅跡」が大正10年に国史跡に指定されて以降、地元の名士からの寄付によって整備・活用されていました。本資料館も「記念館」として建設され、後に「麗天館」と名づけられました。
 平成16年より「島本町立歴史文化資料館」として町の郷土史を学ぶ拠点として活用されています。

 本建物は桁裄11間、梁間7間と大きく、入母屋造桟瓦葺の建物に裳階(もこし)を廻らせて、正面には入母屋屋根の玄関を構えています。
 第二次世界大戦開戦の直前に建てられたという時代背景を反映してか、全体的に簡素ではありますが、日本の伝統的な社寺建築の要素を用い、規模に相応しい堂々とした意匠にまとめられています。
 内部は大空間で折上格天井を張り、現在展示室として使われている中央のホールには回廊が廻っています。片側に設けられた舞台は、当初演壇として使われていました。

 島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)は、地域の歴史を象徴する風格のある会堂建築として、登録基準(一)「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当するものとして評価されました。

用語解説

裳階(もこし)
 仏堂や塔、あるいは城の天守などで、軒下に付いた庇状の構造物のことです。通常、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けます。

          
\みんなで大阪・関西万博を盛り上げよう/
関西万博公式ホームページ<外部リンク>